正宗寺沿革

天龍山 正宗寺(臨済宗妙心寺派)は、愛媛県松山市末広町に所在する禅宗寺院で、松山藩の歴史と深く関わりながら発展してきました。

歴史的背景

寛永12年 正宗寺の開創

正宗寺の歴史は、江戸時代初期の寛永12年7月28日に始まります。
幕府、徳川家光の命により、伊勢国(三重県)桑名藩から松平定行公が伊予松山藩主(15万石)として移ってこられました。
これは中四国地方における初の親藩(家門)の入部であり、周囲の外様大名に対する牽制と警戒という幕府の重要な政治的意図が含まれていました。

このとき、定行公が桑名から松山へ移る際、伊勢桑名の薬師堂に止住していた密山演静(みつざんえんじょう)を初代住職に迎え、建立されたのが正宗寺です。

正宗寺は、臨済宗妙心寺派の中でも「東海派※1・興宗門(こうしゅうもん)」という流派の中心的な寺院として、古くから重要な役割を担ってきました。

※1 東海派とは、中興の祖である雪江宗深(せっこう そうしん)の4人の弟子たちがそれぞれ築いた、「四門」と呼ばれる4つの大きな流派の1つとされる。

流派名創始者特徴
東海派(とうかいは)悟渓宗頓(ごけい そうとん)非常に勢力があり、多くの名刹を輩出しました。
霊雲派(れいうんは)特芳禅傑(とくほう ぜんけつ)妙心寺の組織基盤を固めた系統。
聖澤派(しょうたくは)東陽英朝(とうよう えいちょう)儀礼や作法を重んじる系統。
龍泉派(りゅうせんは)景川宗隆(けいせん そうりゅう)独自の禅風を守った系統。
寛永16年 伽藍の整備

松平定行公による松山城の大規模な改築工事が始まり、天守も5重から3重3階に改築されました。
あえて小さくしたのは、勝山山頂の地盤を考慮し、5重の天守では倒壊する危険性があると考えたからだとも、幕府への恭順を示してのことだともいわれています。

また、家老・奥平氏の提案により、改築の際に生じた余材を計画的に用いて、正宗寺の諸堂が再建・整備され、多くの修行僧が集まり研鑽を積む「伽藍系」の道場としての役割を担う事となりました。

寛永19年 公儀の寺として

松山城の天守の改築工事も終え、「公儀支配の寺」として10か寺の末寺を擁する体裁を整えることとなりました。

寛文8年 松平定行公逝去

松山藩の基礎を築いた松平定行公が82歳で逝去し、正宗寺の「開基」道賢勝山として、長くその遺徳が伝えられています

宝永年間 白隠慧鶴の修行

正宗寺第六世住職 逸禅宜俊(いつぜんぎしゅん)のもとに多くの修行僧が集まりました。その中で、「臨済宗中興の祖」と後に称えられる22歳の若き白隠慧鶴(はくいんえかく)が正宗寺を訪れ、逸禅和尚のもとで禅門に入り修行に励みました。
白隠慧鶴を「正宗国師」とも言います。

江戸時代中期〜後期 中興の時代

寺勢の維持と中興において、正宗寺第三世 脱錐祖頴(だっすいそえい)はもとより、正宗寺第十五世 泰道玄頣(たいどうげんしん)は、その護持発展に尽力しました。

幕末から明治にかけて 正岡子規との出会い

正宗寺第十六世 佛海慧孝(ぶっかいえこう)は正岡子規との交流は単なる「知り合い」以上の、師弟に近い深いものでした。

また、この佛海和尚は妙心寺派の「ご詠歌」の普及と整備に多大な貢献をした人物として全国的に知られています。

歴代住職

開祖密山演静
開基道賢勝山(松平定行)
第二世梵渓禅伽
第三世脱錐祖頴
第四世南川祖苗
第五世喝門宜省
第六世逸禅宜俊白隠慧鶴の修行時期
第七世乾翁禅旭
第八世石應慧端
第九世石昶禅初
第十世活傳祖快
第十一世環衷榮珍
第十二世月湫道黄
第十三世霊應宗淳
第十四世隻禅惠音
第十五世泰道玄頣
第十六世佛海慧孝
第十七世穆州祖雍
第十八世憲道宗倹
第十九世寛道宗坦
第二十世
第二十一世わたしです
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